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ジョン・レノン対火星人

もっと詳しいことを知りたい人は、十八時以降に電話をくれたまえ

舞城王太郎「好き好き大好き超愛してる。」

愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。僕は世界中の全ての人たちが好きだ。名前を知ってる人、知らない人、これから知ることになる人、これからも知らずに終わる人、そういう人たちを皆愛している。

「この小説の著者はただものではない」「頭がハッピーな人の書いた文章なのだろうか」

どちらにせよ、この始まり方、平凡な小説ではなさそうだ。

Wikipediaで調べてみると、ラノベ界からの刺客らしい。なるほど、なあ。

舞城王太郎 - Wikipedia

僕はラノベを読まないが、案外、小説の世界を広げるような刺客は文学の方面からではなく、そちらの方からやってくるのかもしれない。

多くの作家が、その時代の話し言葉のダイナミックさを取り入れることで、新しい小説の言葉を作り出してきたのだ。

Wikipediaによると、石原慎太郎は「タイトルを見ただけでうんざりした」と言ったらしい。(「好き好き大好き超愛してる。」について)

いいぞ、新しい小説は、石原のじじいを怒らせるくらいじゃないと、だめなんだ。チンポコじじいのクソ文学なんて、ぶっ飛ばしてやれ。

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

行け行け、舞城王太郎。

フレフレ、舞城王太郎。

高橋源一郎「さよなら、ニッポン」

さよなら、ニッポン

さよなら、ニッポン

困ったことに、この本については書くことが多すぎるので、逆に何も書くことがない。

だったら別になにも書かなくていいじゃないか、という話ではあるが、読んだからには何か残しておこう、というさもしい根性。いつから日本は「アウトプットしてこそのインプット」みたいなさもしいことを言う輩ばかりが跋扈する国になったんだろうか。まあ、いんだけどさ。

タカハシ先生いわく、ある小説を論じるためには、まずその小説を全文引用する必要がある。その上でその小説について論じ、さらに論じた上で別の小説を書く必要があるという。

全文引用するのは、もとの著者の意図を歪めないためだ。特定の文章や人の発言から都合のいい部分だけを引っ張ってきて論を張る、というのは世の中のここかしこで何の恥ずかしげもなく行われていることではあるが、タカハシ先生はそんなことはしたくない。でも、現実に全文を引用するのは大人の事情により不可能なのだ。

せっかくなので、ちょっとだけ引用しよう。

それはもう四十年ほど前のことだ。

ぼくは、あることで逮捕されて、毎日、朝八時から夜九時まで、食事以外の時間はすべて、警察官や検事の訊問を受けていた。

一週間、十日、二十日。ぼくは、ひとこともしゃべらなかった。

向こうが一方的にしゃべる。たとえば、世間話をする。お母さんは、どういう人?文学少女でしたね。ははん、その世代の女の人は、そういう人が多いんだね。そういわれると、ぼくは、なるほど、とうなずく。

頃合いやよし、と判断すると、その検事(もしくは、警察官)は訊問を開始する。

「ところで、あの日のことなんだが」

訊問に移ったところで、ぼくは下を向いた。そして、ただひたすら時間が経つのを待った。

それからしばらくして、ぼくは起訴されることになった。

そして、接見に来た弁護士に、完全黙秘していると保釈されないので、必要最低限のことだけ、しゃべってください、といわれたのだ。

そこで、ぼくは、初めて、検事の質問に答え、訊問調書を作られたのだった。

「訊問調書」というものは、おもしろい。

たとえば、検事は、

「1969年の11月16日の夕方、きみは、京浜東北線の蒲田駅前で降りたんだね。間違いないね」と訊ねる。

ぼくは、

「はい」と答える。

それから、また、検事は、

「その時、君は、佐藤首相の訪米を阻止する目的で、角材と火炎瓶を持って、降りたんだね」と訊ねる。

ぼくは、また、

「はい」と答える。

そして、また、検事は、

「その時、君たちを連れていったリーダーは何ていう人?」と訊ねる。

ぼくは、また、

「忘れました」と答える。

そのような応答が続き、その間、時には、ぼくは答え、また時には、答えられない、わからない、忘れました、はっきり覚えていません、ちがうと思います、と答え、いつの間にか、「訊問調書」が出来ているのだった。

そして、最後に、検事は、こういった。

「これから、きみの『訊問調書』を読み上げるから、確認するように」

一瞬、間が空き、それから、検事が朗読しはじめた。

「検事である、☓☓☓☓が、1969年11月23日、右被疑者、タカハシゲンイチロウがどのように行動したのかについて、訊ねたところ、右被疑者は、以下のように述べた。

わたしは、かねがね、日本政府の対ベトナム政策について不満を抱いておりました。とりわけ、11月の、佐藤首相の訪米は、日本政府によるアメリカ政府のベトナムへの侵略政策への下端を象徴するものであると考え、絶対に阻止しなければならないと考えるに至りました。そこで、わたしは、同年春以来、住居としていた、☓☓大学内で……」

ぼくは、下を向き、「ぼくがしゃべった内容」と称するものを、聞いていた。

その時、ぼくは、ほんとうに、心の中で、こう叫んでいたのだ。

「これ、近代文学そのものじゃん!」

その「訊問調書」は、ひとりの若者が、解決しにくい難問(なので、詳しくは書いてない)を抱えて上京し、革命理論に共鳴し(でも、そこも詳しくは書いてない)、やがていっぱしの活動家に成長し、闘争に入りこんでいく様子が、簡潔に「ぼくのことば」で描写されていた。

実際、裁判に、そんなことが必要なのだろうか、と僕は思った。そんな、「内面の告白」が。

でも、「絶対に必要」らしいのだ。

その被疑者が、どんな思想を持ち、どんな考えを懐いていて、その結果として、反社会的な行為に走ったのかを、理路整然と、さながら小説(近代文学)の如く、説得力を持って、説明しなければ、「訊問調書」にはならない。

そして、どんな具体的な証拠より、実は、その、「近代文学」そのものであるような「訊問調書」の存在こそが、裁判を成り立たせているのである。

床を見ながら、ぼくが滔々としゃべったことになっている、ぼく自身の「告白」らしいものを、僕は聞いて、すごくわかりやすいなあ、と思った。

それにしても、その「訊問調書」の中に存在している人間は、ほんとうにぼくなのだろうか?

それが、本当にぼくなのだとしたら、そんなに裏表のない、そんなにわかりやすい人間とは付き合いたくない、とぼくは思った。

それから、この「訊問調書」を書いたのは、誰なのだろう、と思った。

ぼくがしゃべったことばの断片を、みごとに膨らまし、ひとりの若者の成長と挫折のドキュメントに仕上げたのは、検事なのだろうか。

そうではないような気がした。

検事は、どのように書けばいいのか知っていた。

彼にも、彼を「沖」まで連れていってくれる強力な船があったのだ。

あれは、ぼくが書いた(しゃべった)のではなく、検事が書いたのでもなかった。

では、誰が書いたのか。

「裁判所」が、というか、「訊問調書」自身が、というか、「法律」が、というか、「近代文学」が、というか、「近代」が、というか、なにかそのようなものが書いた、という他、なかったのである。

ぼくは、留置場に戻ると、隣の房にいる結婚詐欺の常習犯の中年の男に、そのことを訴えた。

いってないことをいったように書かれた(厳密にいうと、そうではない。いったことを、いったこと以上の内容で書かれたのだ)、確かに、ぼくのしゃべったことばでできているかもしれないけれど、「訊問調書」の「わたし」は「ぼく」じゃない、と。

すると、結婚詐欺師は「その通り!」と大声を出した。

「きみだけじゃないよ。みんな、迷惑してる。おれなんか、『女性性器』だよ」

「『女性性器』って?」

「だから、『訊問調書』で、『わたしは、その時、☓☓子の下着の上から女性性器を触り』ってなってたから、『ちがうよ』っていったわけ。『触ったのは「おまんこ」だよ。おまんこ。そこを直して』って。でも、ダメだっていうわけよ。だって、おれは『おまんこ』に触ったわけで、生まれてから一度も『女性性器』なんてもの見たことも、触ったこともないからね」

ここを読んで、ぼくは、「なんだか、とってもよく似ている!」と思った。

何に似ているか、分かりませんか?「訊問調書」は、面接で聞かれる「志望動機」にとっても、よく、似ている。

「弊社への入社を希望する理由はなんですか?」

「はい、僕は小さいころからものを作るのが大好きで、小さいころには◯◯◯◯を作って遊び、大学に入ってからは☓☓☓☓という部活に所属し、そこでは△△をやることで◯◯の大切さに気づきました。そして…」

あるいは、

「以前の会社を辞められたのは何故ですか?」

「はい、僕は昔から◯◯にこだわった仕事をしたい、と思っていました。前職自体に特にネガティブな要素はなかったのですが、今後自分が△△として成長していく上で、☓☓を重視して仕事をしていく必要があると感じました。それで...」

つまり、本来何だかよくわからないものであるぼくたちの「人生」を、人にとって分かりやすいストーリーに仕立て上げる、という意味では「訊問調書」と「面接」は全く同じなのだ。

「訊問調書」の方がより残酷なのは、自分自身はストーリーを作りたくなくても、他者がそれを強制的に作り上げてしまうところだ。なぜなら、裁判に必要だから。面接では、ストーリーを作りたくないのであれば、そもそも面接なんて受けない、という自由がかろうじてぼくたちには許されている。(ほんとうか?)

検事に訊問調書を作られたタカハシさんは、「違う、そんなんじゃない!」と心の中で叫ぶことができた。それは、そもそも人生がそんなおさまりのよい「お話」になるわけない、ということももちろんあるけど、そのストーリーが自分で作ったものじゃなかったからでもある。

面接に限らず、自分自身で作ったストーリーにはぼくたちはあまり違和感を感じないようにできている。なぜなら、自分の人生をストーリーのように考えること、それは人間の頭が持っている「世界に意味を与える」という機能の一部だから。

でも、本当のところを言えば、人生はストーリーなんかじゃないし、それを語らせる現代の就職や転職の面接はほんとうにクソだ、と僕は思っている。

なぜ面接にストーリーが必要なのか?それは、会社に入るためにはある程度立派な、納得のできる「理由」がいるからだ。

そして、人を納得させるための「理由」には、裏付けとして「これまでのあらすじ」が必要なのだ。

かくして、現代の企業と「近代文学」は手を結び、仕事の必要な人間に「お話づくり」の才能を要求する。

正直なところ、「人にストーリーを作られること」よりも、「ストーリーを作ることを強いられ、そのうち自分でもそれを信じてしまうようになる」ことの方が、ぼくはよっぽど怖いと思う。

そうじゃないですか?

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橋本治「失われた近代を求めて」シリーズ

失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)

失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)

失われた近代を求めてII 自然主義と呼ばれたもの達 (失われた近代を求めて 2)

失われた近代を求めてII 自然主義と呼ばれたもの達 (失われた近代を求めて 2)

失われた近代を求めてIII 明治二十年代の作家達 (失われた近代を求めて 3)

失われた近代を求めてIII 明治二十年代の作家達 (失われた近代を求めて 3)

まるっと、読了した。

1冊ごとに記事を書こうかとも思ったけど、それほど勤勉になって何かが生まれるわけでもないし、読書感想文を学校から求められている小学生でもないしな、的な。

総じて言えば、この3冊は橋本治による「日本近代文学史の見直し」である。

見直しっていうのが大上段すぎるなら、敢えて橋本治風に「近代文学っつうのはそもそも何なの?」と言ってもいいのだが、とにかくそういう性格のものである。

僕は全然そちらの専門教育を受けた人間ではないので、日本の文学史というとやっぱり学校で配られた「国語便覧」の内容を思い浮かべてしまう。いわく古事記から始まって、源氏物語とか平家物語とかがあって、江戸の戯作とか何やらかんやらがあって、明示に言文一致で自然主義でどーのこーの、プロレタリア文学がどうしたこうした、みたいな。

こうした小中学校で流布されているいわゆる「文学史」が一体どこから来たのかよく分からないが、多分どこかの偉い人々の総意に基づいた文学史の本流っぽいものを下敷きにしてるんだろう。きっとそうなんだろう。

で、一般に正とされている文学史の流れって本当にそうなん?と、実際の著作をひもときつつ俺がゼロからちゃんと確かめてやるかんねー、というのがこの3部作なのである。

特にヘンテコなのがいわゆる「自然主義」で、自然主義と呼ばれた作家の中に「俺は自然主義をやるぞー」と自分で思って自然主義をやっていた人なんて全然いなかった。「なんかよくわからんけどこれからは自然主義だ」と勝手に思い込んだどこかの評論家が勝手にこれこれは自然主義である、と言い始めたのが事の起こり。

まあ自分で思わずとも後世の目から見て「この人はなんとか主義のなんとか派だなぁ」という分類をちゃんとする、というのはある程度妥当性のある話ではある。けどこれはもうそれ以前の話で、個々の作家の作品にちゃんと注目して読めば「自然主義」の潮流なんてものは別にどこにもなかった、ということが2巻目に書いてある。というか、「自然主義とはこういうものだ」というちゃんと定義がそもそもどこにもないのである。

まあいわゆる文学史における「誰それはなんとか主義の作家で、誰それは何とか派」なんてこと、個々の作品をちゃんと読んで行けば嘘っぱちだってまともな頭の持ち主なら大抵分かるんだけども、だからといって「よし俺が近代文学史をまるっと検証しなおしてやろう」なんて風には思えないし、流布されている国語便覧的文学史に冷ややかな視線は送りつつもそれにまともに反論しようなんて思わない。それを敢えてやってしまうのが橋本治の偉いところである。偉いというか、公共心があるのである。

その作品にまとわりついた文学的・歴史的・哲学的先入観を廃して、その作品そのものに集中して読むこと、それを「マルクスその可能性の中心」を著した柄谷行人は「可能性の中心において読む」と表現したのだけども、このシリーズは「日本の近代文学をその可能性の中心において読みなおした」ものだとも言えるだろう。

なんだかエラソーな終わりになったけど、まあいいや。

橋本治「ああでもなくこうでもなく」

小説でもなく評論でもなく、特定の期間に「広告批評」に連載されたエッセイをまとめた本なので、当然ながらまとまった書評にはならない。まあ、まとまった書評なんてそもそも書けないんだけどね。

ああでもなくこうでもなく

ああでもなくこうでもなく

この本に収録されている文章が書かれたのは、96年12月〜99年8月。つまり、西暦を2ケタで表現していた最後の時代だ(今でも16年とか書く場合はあるかもしれないけど)。

その中で特別印象に残ったのは、バブルに関する部分と、淀川長治さんへの追悼の文章。

バブルの時代に日本人は金儲けのことしか考えなかったーーというのはもちろん間違いで、正解は、「バブルの時代に日本人は、自分の欲望を肥大させることしか考えなかった」なのだ。 多くの日本人は、バブルの時代に特別の金儲けを考えなかった。そんなことをする必要もないくらい金は余っていた。金儲けを最大の欲望とする人というのは少数派だから、多くの日本人は『自分とバブルは関係ない』と言うのだけれど、そういう人達は、バブルの時代に自分の欲望を肥大させて、金を使う消費者として、金儲けだけを考える人に協力していた。そういう翼賛体制があってバブルは成り立っていたんだけど、バブルの時代に膨らんだのは経済だけじゃない。自我というのも水膨れになって肥大した。自我が肥大して、根拠のない万能感を持った人が増えた。バブル=経済とだけ考えていると、この不自然な自我の肥大が分からなくなる。今の日本は、その構成員である日本人の一人一人が自我のバブルから抜け出せていないから、おかしなことになる。

(中略)

金の切れ目は縁の切れ目で、バブルははじけたんだから、肥大した自我もはじける。結局は「もう少し冷静になりましょうね」というところにしか行き着かないんだけどね。

あー、そっかー。みたいな。

お金はないより、あった方がいい。それは間違いないんだけど、うっかりお金を持ってしまったことで、自我を肥大させちゃうってこともあるんだな、と。働いてお金を一杯もらえる=年収が高いってことは、それはそれで「その人の価値」の反映であるのと同時に、「たまたまあるタイミングでそこにいたから」ってことも往々にしてあるわけです。というか、どちらかと言えば後者の方が多いんじゃなかろうか。もちろん、前者と後者両方兼ね備えて(つまり、実力とタイミングの掛け合わせで)偉くなっている人も沢山いるんだけども。

人材としてのその人の価値なんてあくまで相対的なもんなので、「いまそこでそれだけの年収を貰えている」からといってその額に完全に見合うだけの価値があるかどうかは誰にも分からない。けど一方で年収を評価の軸にするマーケットは厳然として存在するわけで、「お金だけが重要なわけじゃない」と頭で思いつつ口で言いつつも、やっぱり多くの人にとってなんとなく人間を階級付けする指標として年収がある。それが現代の価値観だと思う。

バブルで肥大した自我を持った人はもっと上の世代に、つまり「親の世代」になった。上の世代の影響はその下までどうしても続いてしまう。それでいまだに日本人の豊かさの基準は「お金」しかなくて、「豊かさの基準がお金しかないなんて、なんて貧しいんだろう…」という感じ方も一部で産まれつつはあるんだけど、じゃあ本当の豊かさってなーに?という所はいまひとつはっきりしていない。統一された基準がある必要はないんだけど、各々が「これが俺の豊かさだ」って自信をもって言い切れるほどまだ反・拝金主義の思想は成熟していない。かたやグローバルがなんとか経済成長がなんとかみたいな「いまだバブル脳」の輩の声は大きくて、おいおいもうそういう時代じゃないだろ?とは思うんだけれども。

元々お金持ちでした、という人以外は「お金がある」という状態に対する抵抗力がない。なのでお金を持っちゃえばいくらでも自我が肥大しちゃうし、ちょっと古い話だけどIT系で上場した会社の社長が女遊びにウン百万、ということにもなるし、もっと下の方ではなんか調子に乗った感じの人間が量産される、ということにもなるんだろう。

自我を肥大させない、というのを昔の言い方をすれば「身の丈を知る」ということになるんだろうけども、「身の丈を知りつつも誠実に頑張る」というのは中々に難しい。普通の人は「あー俺の自我が肥大しちゃってるわー」なんて思わない。「自分にはそれだけの価値が備わるようになったのだ」と感じるのがどちらかと言えば当たり前で、それは正しく自我の肥大以外の何物でもない。

何の話だっけ?

お金は思ったよりも深いところで人の自我に影響を及ぼすから、それに依らない自分だけの「豊かさ」を追求した方がおそらく幸せになれる、ってとこだろうか。

バブルの話はもう飽きたので、次行きます。

淀川長治さんは、僕の世代からすると「金曜ロードショーとかの映画の前に出てきてなんかいいこと言ってる感じのおじいちゃん」なんだけども、「映画の友」という映画雑誌の編集長だったんですね。テレビの映画解説者として活躍したのは、その後の話。

映画の友の愛読者だった橋本治さんは、「広告批評」のイベントで淀川長治さんに初めて会って、「会いたかった」「もっとこわい人やと思っとった。こんなに可愛い人とは思わんかった」「あんたはモダンボーイね」と言われて、少し涙ぐんでしまったそうな。いい話じゃないですか?これ。ここでのモダンボーイが何を意味するのかなんて別にどうでもよくて、当人たちがそれで通じあっていて涙が出るほど嬉しければ、それだけで十分いい話だ。

いわゆるプロの映画評論家とは見做されていなかった――らしい。しかし、

淀川さんは、全身で映画を語った―語れた。「重要なことは『批評』ではない、まず『楽しむ』ということ、『素晴らしい』ということを知ることだ。そのために必要となるのは蓄積だ」――これが淀川さんの根本にあったことだろう。だからこそ、「人に映画の素晴らしさを伝える」ということが、淀川長治という人において、職業として成り立ちえた。 「映画の友」がなくなった後、淀川さんは身一つでテレビの世界に入っていった――「楽しむ」を伝道するために。「『楽しむ』が欠落した知は知でない」――淀川さんの存在はそのことを語っている。

これこそ本当の批評なんじゃないの?という話ではあるが、世の中でいわゆる「本物の批評」とされているものがいかに詰まらないかっていう話である。

そして中央公論社の前会長(いまも前会長、かは知らないが)である嶋中鵬二さんのことに話は移り、谷崎潤一郎訳の源氏物語を出したまさにその会社から橋本治さんが「窯変源氏物語」を出版する運びになり(恐れ知らずのチャレンジャー)、それを出した後に「源氏と平家を同時に出すのが私どもの夢でございました」と電話を受ける。かくして「双調平家物語」が書かれることになる――その約束をした会長さんは第一巻が出る前に亡くなってしまう。

淀川長治さんが伝えたものと、日本の出版のドンの「私どもの夢でございます」という言葉、それを受けて橋本治さんは「後は引き受けましたから」と書くのである。

そして最後に、

というわけでお願いなんですけど、「今の自分に関係ない」なんてせこいこと言わないで、私の『双調平家物語』を読んでくれませんか?難しいのは百も承知ですが、結構重要な未来がここにかかってるんです。昭和を終わらせた後は、二十世紀をちゃんと終わらせないと、二十一世紀が来ない。人を送るということには、その意志を継ぐということも歴然と含まれてると思うから、読んで下さい。淀川さんに今の活字文化の窮状を話したら、きっと、「皆さん、もっともっと、本を読んで下さい、映画も見て下さい」とは言ってくれると思うけどな。

淀川さん、さようなら。

意志を継ぐなんてことはとても言えないが、本読みの端くれとして「双調平家物語」は最後まで読み通そうと思った。そんな時間あるのか?とも思うけど、僕は橋本治さんが自著について「読んでくれませんか?」なんて書いているのを初めて見たのである。

いわゆる文壇、あるいはアカデミックの世界において、橋本治さんがどういう評価を受けているのか知らないし、知る気もない。だけど、間違いなく本流でなく傍流の人という扱いだろう。そんなことに関係なく、僕の中では橋本治さんこそ、そういう枠組みを超えた本質の人である。

アシュトン・カッチャーの顔を見るための映画「スティーブ・ジョブズ」

僕はもともと「バタフライ・エフェクト」の大ファンで、まず自分一人で観て、とっても面白かった。そのあと友人に勧めたときも好評だったし、妻に見せても好評だった。それをもって「今まで人に勧めてハズレのなかった映画」としてオススメ映画を聞かれたらとりあえずバタフライ・エフェクトを推す人間になったわけなんだけども、よく考えてみたら数人にしかお勧めしたことはないので、サンプルとしてはかなり少ない。

バタフライ・エフェクト プレミアム・エディション [DVD]

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今更「バタフライ・エフェクト」の面白い所なんて改めて紹介してもしょうがないと思うのだが、やっぱり脚本が素晴らしい、ということだけは言っておこうと思う。僕はこういった「ループもの」が大好きなのだ。特定の期間を繰り返すループにより運命に抗おうとする主人公のドラマが引き立つ。かつて一世を風靡した「ひぐらしのなく頃に」もそうだし、ノベルゲーム最後の大傑作である「Steins; Gate」もそうだ。なお、Steins; Gateのラストは明示的にバタフライ・エフェクトのラスト・シーンへのオマージュになっている(らしい)。

ちなみに「バタフライ・エフェクト2」はあまりにレビューの評価が悪かったので観ず、かろうじて「バタフライ・エフェクト3 最後の選択」は観た。結論からいうと3も観なくていい。3で一番面白いのは女バーテンが主人公に「バタリー・ニップル(とろける乳首?)」というカクテルをサーブした直後、唐突に二人がバックで激しいセックスをしている、というシーンだけである。あと、妹が真犯人。

さて「バタフライ・エフェクト」で主役を張っているアシュトン・カッチャーなわけだが、これが男の僕が見ているだけで嬉しくなるような男前なのだ。水も滴るいい男、とはこのことで、赤く濡れた唇が今にも零れ落ちそうなイケメンである。

アシュトン・カッチャー - Wikipedia

(Wikipediaの写真はさほどでもないので、気になった人はぜひ「バタフライ・エフェクト」本編を観てほしい)

奥さんいわく「チャラくなくて、知性的なイケメンなのが良い」とのこと。自身の記憶の欠損の謎を解き明かすために脳について大学で勉強した、というインテリ寄りの主人公の役にもハマっている。

で、問題の「スティーブ・ジョブズ」だ。

僕は「スティーブ・ジョブズ」という映画が発表される前から「若いころのスティーブ・ジョブズとアシュトン・カッチャーってすごい似てるよな」と思っていたので、映画の製作が発表されたときに「俺も前から似てるって思ってたもんねー、ハマり役だよな」と謎のミサワ的満足感を覚えた。それと同時に「とりあえずハマり役ではあるけど、映画としては微妙だろうな」と予想していた。

そして事実微妙だったわけなのだが、もともと奥さんと一緒に「アシュトン・カッチャーを見るためだけに(この映画を)観よう」と決めて観ることにしたので、別に映画自体の出来はどうでもいいっちゃよかったのだ。まあ面白かったらめっけもんだね、くらいのノリだった。

一応映画としての評を書いておくと、最もカタルシスが得られそうな部分、つまりジョブズがアップルを追い出されてNeXTに行って、あれやこれやでアップルに戻ってiPodやiPhoneで大成功を納める…という部分の尺があまりに短すぎる。後半の10分くらいしか充てられておらず、映画のほとんどはジョブズのヒッピー時代から起業、初期アップルが大きくなってジョブズが追い出されるまでの話である。なんというか、そもそもの全体の尺が短すぎなんじゃないだろうか、この映画。詰め込もうとして詰め込めず、かといって特定の年代にフォーカスするほどの割り切りもできなかったんだろうな。

「ジョブズの人生の一番面白いところはアップルに戻って大逆転のとこだろうが!」というのが僕の穿った見方であるとしても、全体として「起こったこと」だけがダイジェスト的に表現されているだけで、登場人物の動機が全然分からない。これは奥さんの評。

要するに、もともとの予定通り「アシュトン・カッチャーの顔を眺めるための、それ自体としてはさほど面白くない映画」を2時間ほど観た。そういう意味では満足でした。

ある意味似たようなテーマを扱っている「ソーシャル・ネットワーク」はもうちょっと面白かったと思うんだけどなー。そこはやっぱデヴィット・フィンチャー監督の底力なのかしら。とか、とか。

大西巨人「精神の氷点」「地獄篇三部作」

精神の氷点

精神の氷点

「精神の氷点」は大西巨人の処女作だそうな。なるほど、言われてみれば…と思えないこともない。主人公は、「神聖喜劇」の東堂太郎の虚無的な部分だけを抜き出した人格、いわばいいとこなしの東堂太郎だし。

この主人公、人間にはあらゆることが許されているとか本来人間に貞節なんてあり得ないとか、そういうことを証明するために人妻二人を計画的に誘惑するわ(しかもその合間に片方の人妻の姪も誘惑している)、その後の扱いもひどいわで、いわゆる鬼畜である。その上、戦争に行く前に必ずなしておかなければいけない自分の義務として「自らの意志でもって人を殺す!」と決めた上で、やっぱ怖いからどうしようかなと逡巡した末、出征の前日に酔ったサラリーマンを小玄翁(つまりちっこいハンマー)でラスコーリニコフばりに撲殺する。

ようするにどうしようもない奴が主人公なわけだが、大西巨人の端正な文章とこの虚無的な主人公は果たして何をしてきたのか、どこへ行くのか、という興味に引っ張られ、退屈せずに読むことができる小説である。

地獄篇三部作 (光文社文庫)

地獄篇三部作 (光文社文庫)

「地獄篇三部作」は二作目?にあたるのだろうか。その第一部に文壇パロディ的な内容が多いために当初は発表できなかったらしいが、今読んでみると特にセンセーショナルな内容が含まれているとも思えない。皆でよってたかって大西巨人を説得して発表を止めたという話だが、当時の文壇のお偉方が何を考えていたのかは、よくわからない。

ともかくこの小説は書き上げた当初は発表できず、その第二部である「白日の序曲」だけを別個の小説としたらしい。ほとぼりも完全にさめて「地獄篇三部作」として発表するにあたって「白日の序曲」はこの小説の第二部として元の鞘に収まった、ということらしい。ああ、ややこし。

第一部の文壇パロディよりも、普通の小説として読める第二部の方が面白かった。今回の主人公は、会社の後輩の女子をたぶらかして自殺に追い込んではいるものの、殺人は犯していない。また退役後に別の女性を愛そうという姿勢が見える、という点で鬼畜度はやや薄まった、といえるだろう。(ほんとか?)

この二つの小説は、「虚無的ヤリチン」な主人公が徐々に「神聖喜劇」の東堂太郎に昇華されていく過程として読めないこともない。そういう風にとらえないと、大分と共感しづらい主人公達ではある。(僕が小説を読むときには、主人公に共感なんてしなくても読めるのだが、一般的にそうかどうかについては、自信がない)

なので、やっぱり大西巨人を読む場合は「神聖喜劇」から入った方が無難だと思われる。

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

バニラ・スカイ

先日、奥さんと一緒にバニラ・スカイを観た。

バニラ・スカイ スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

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僕は以前に見たことがあって、そのとき「死ぬ前にもう一度見たい映画リスト」に入れた。ものすごく優れた映画とは思っていないが、この映画に表現されている「けだるさ」が好きな人は少なくないだろう。

そして今度は奥さんと観たのだが、やはり同じ映画でも、一人で観るのと人と一緒に観るのでは感想が違う。単純に二回目だからという点、例えばリメイク元の「オープン・ユア・アイズ」に対するオマージュとして「起きて」という意味で登場人物が作中でオープン・ユア・アイズ、オープン・ユア・アイズ、と言っていることに気づいたとかそういうこともあるが、自分と違う視点を持っている他人と映画を観るのはやっぱり面白い。

さらに前に観た「ロスト・ハイウェイ」のときもそうだった。奥さんとリンチ映画を観るというのはいささか無謀な試みといえなくもないが、僕は奥さんのフィクション許容度を信頼しているので、トライしてみたのだ。結果的には、それなりには面白かったとのこと。

(ここから先にロスト・ハイウェイのネタバレあり)

ロスト・ハイウェイ デイヴィッド・リンチ リストア版 [Blu-ray]

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「ロスト・ハイウェイ」で一人で見ている時に気づかなかったのは、主人公がフレッドからピートに入れ替わった後に(名前を忘れたが)後半のヒロインに出会い、"This Magic Moment" という曲をバックにしながら視線を交わすシーンの面白さだった。

ここでの「面白さ」はお笑い的な意味なのだが、確かに言われてみればそのあまりの典型的な「一目惚れ」シーンは "This Magic Moment" のアメリカン懐メロ感とあいまって非常に面白いシーンに仕上がっている。

どうやらデヴィッド・リンチはクラシカルなアメリカン・ポップを映画の途中に挟み込むのが好きらしく、「ワイルド・アット・ハート」ではニコラス・ケイジ演じる主人公が急に「ラブ・ミー・テンダー」を歌い出すシーンがあるし、「インランド・エンパイア」には部屋にいる十数人の売春婦がストーリー上何の脈絡もなく「ロコローション」を踊り出す、という意味不明すぎて笑えてしまうシーンがあった。

また残酷かなと思って事前に注意したシーンがあったのだが、そこもよく見てみれば登場人物がもみあった結果水平にジャンプし、尖ったテーブルの角に頭が刺さって死亡、というまるで豆腐の角に頭ぶつけて死にましたみたいなシーンで全く怖くなかった。

リンチがどういうつもりでこれらのシーンを撮ったのかはよく分からないが、「そういうシーンが撮りたかったから」というのが真相なのだろう、多分。

話が完全に逸れてしまったが、「バニラ・スカイ」は思ったよりも奥さんに好評であった。完全に男性側視点に寄った映画といえなくもないのだが、根本に表現されているテーマは(当たり前といえば当たり前だが)ちゃんと観た人には伝わるのだろう。

フィクション許容度は何気に重要な能力の一つであり、これが足りない人間と映画を観ると残念な結果を生むことになる。例えばストーリーがある程度以上複雑だと説明なしで理解できなかったり、「なぜこの映画はハッピーエンドにならないのか」「なぜ登場人物Aと登場人物Bはくっつかないのか」なんて言葉が飛び出してきたり。実際にあった例としては、「紅の豚」を観て「なぜマルコとジーナは映画の最後でくっつかないのか」なんてことを言った女性を僕は知っている。マルコとジーナが結ばれて幸せに暮らしましたとさ、なんてエンドだったら紅の豚が台無しだと思うのだが…。

こういう風に書くと女性の方がフィクション許容度が一般的に低いと僕が思っているかのような印象を受ける人もいるだろうが、別にそんなことは思っていない。これはリテラシーの問題なのだ。かといって「デヴィッド・リンチ最高!」みたいな女性と結婚したいとも思わないので、男というのは自分勝手なものである。(なんだか、バニラ・スカイに関係あるような、なさそうなオチになった。)